だから何度も言うように、防衛費をいくら上げても国を守ることはできない。なぜなら、防衛力を強化すれば当然相手はそれを上回る攻撃力を獲得してくるのだから。相手も目的を持ってやっていること。日本は守りが固いから攻めるのやめよう、とはならない。この際、相手の武器の高性能化を加速させるだけ。‥そんなことはもう歴史が繰り返し証明しているではないか。軍備で戦争を抑止する事は、外交で平和を維持する事より難しいのである。一に外交、二に外交、それでもだめなら、やっぱり外交。たとえ後ろ手に縛られれて殴られても、話し合いを求めるしかない。それが戦争を放棄するということだ。
全く建設的でない防衛費・軍事費に貴重な財源・資源を注ぎ込み、かけがえのない小さな惑星に住む兄弟同士が歪み合い憎み合って際限のない軍拡競争に走る。相手が武器をとったからこっちも武器をとる。あまりに単純で野蛮。これでは何も解決しない。
戦争を起こしてはその度、殊勝に反省しているようなフリをみせながら、いそいそと次の戦争の準備を始める。「過ちは繰り返しませぬから。」なんて誰が言った。結局同じ愚行を何千年ものあいだ繰り返すだけなのだ。それでも知性ある生命体の所業か。愚者の代表は世の指導者たち。日本の総理大臣とて無論例外ではない。いい加減、目を覚ましてほしい。
軍隊と兵器は人類の幼稚さと未熟さの象徴。外交のための予算を増やすならまだしも、日本はあっちにまた我々の血税を追加投入しようとしている。専守防衛をうたいながら、日本はすでに世界第5位の軍事大国。それでもまだ足りないという。狂気の沙汰でなくてなんだろう。
思うに、市中を闊歩する人々が武装を禁じられているのと同じ理由で、地上を割拠する国々が武装を禁じられるのは自然なことではなかろうか。だから、まずは世界の国々が一斉に軍備を放棄する。そして再武装することを許さない。‥これをいかにして可能にするか。難しいのは分かる。ができないわけがない。どこの国だってなるべく戦争なんかしたくないと思っているのだから。
新兵器を開発する頭があるなら、どうしてこっちに知恵を絞らない。
民主主義と権威主義という二つのものがある。私自身は民主主義の方が心地よさそうだから、こっちの方が好きである。(でも厳密には、他の体制のもとで暮らしたことがないから深い根拠はない。)
最近思うのは、民主主義も権威主義も人類始まって以来の長い歴史を持つ体制なのだから、お互いに尊重し合うべきなのでないか、ということ。(ましてや今世界では、権威主義国家の方が数の上で主流派だ。世界がそのように進化したと考えるべきだろう。民主主義はそれが寵愛する資本主義に足を引っ張られたのだ。資本主義が淘汰されるまで、民主主義の優位は回復しないと思う。)尊重とまではいかなくても、批判や干渉はまずい。そこを間違うからいさかいが起きる。
家族団欒の食事中に急に隣人が上がりこんできて、「うどんの方がうまいのに、そばなんか食ってんじゃねえよ。」と言われらたら、けんかにならないほうがおかしい。
人には人の、国には国のやり方、価値観がある。中国にしても北朝鮮にしてもロシアにしてもISISにしても、彼らには彼らなりの正義があるのだ。正義は何もアメリカの専有物ではない。だから、ある正義が他の正義を裁くことはできない。あえてそれをすれば、暴力や紛争を招く。アメリカ人にはそれが理解できないようだ。
正義の話しが出たついでに、もう少し書く。
‥アメリカは、かつて奴隷制を採用していた。‥イギリスには、有色人種を見せ物にする人間動物園があった。(着飾った白人女性がフェンス越しに、いたいけな黒人女児に対し、まさに「餌」をやっている写真がある。)
‥あそこに原爆を落とせば、死者のほとんどは子供を含む一般市民になることはちろん分かっていた。‥カナダ政府は、白人同化策のために先住民の子供たちを親から引き離して強制的に寄宿舎に入れ、そこでは多くの小さな命が失われた。(オーストラリアでも先住民アボリジニに対して同じようなことをしていた。)‥欧米諸国は競ってアフリカの国々を植民地化(侵略)し、土着の美術・工芸品等を収集(略奪)して自国の博物館にせっせと送った。
日本にしても、天皇を神の化身(現人神)と信じる一方、欧米人を鬼や畜生であるかのように罵っていた(鬼畜英米)。遺伝病を増やさないため、本人をだまして粛々と不妊手術を行っていたのも日本である。
まだまだある。アメリカもイギリスも日本も(他の多くの国も)、女性は政治に口をはさむべきではないとしていた。‥かの名門ハーバード大学では、女性・黒人・ユダヤ人の入学は認めなかった。
いずれも最近のことである。なんとおぞましいと眉をひそめるかもしれない。だがこんな話は山ほどあるのだ。しかしここで強調したいのは、こうした行為や理念が当時、まごうことなき正義とされ、何ら正義にもとるものはないと考えられていたという事実である。
であるならば、現在の我々の価値観が恒久的に正しいと言えるか。不朽の正義なんてものがあるのか。もし「人類は今や、究極にして普遍的な正義の概念を確立した。」なんて信じているとすれば、誠におめでたい話だ。
実際に、今は正義と思われているものだっていつまでもつかわかったものではない。なかでも長持ちしそうにないのが、私が思うに「人権」というやつだ。たとえば先の例でも示したように、人種、宗教、性別などの観点だけからしても、「人権」の意味するところは歴史上コロコロ変わってきた。だから当然、現在の「人権」も普遍的であるはずがない。その移ろいゆく価値観の流れの中で、いつどれを採用するかは地域や信条など諸条件によって差が出るのも自然なことだろう。白人至上主義者は、彼らなりに十全の正義感と人権意識を持った上で、白人の優位性を主張する。死刑制度をめぐる人権・正義の議論は、自らの主張の正当性を主張するのみで、日本と西欧諸国(および国際人権団体)との間で一向に噛み合わない。
キリスト教徒もイスラム教徒もオウム真理教信徒も統一教会信徒も、自分の帰依する宗教の教理だけが最高にして唯一の正義。そう、正義はまさに十人十色。人権に限らず、自分の信じる正義は、「いま」「ここで」しか通用しないのである。そこがわかっていないと、国の間でいざこざが起こる。繰り返しになるが‥。
以下は蛇足かもしれないが、正義と正義の衝突による紛争を解決するにはやはり裁判という形を採るしかないだろう。現実的には、国連や国際司法・刑事裁判所等の機関の権限を極大化し、これらに絶対的な権限を付与すればいい。(これらの仕組みに加盟しない国々には必ず邪な理由があるに違いない。)そして「裁定に従わなければ領地没収」くらいやってもいいと思う。もちろん、拒否権とか常任理事国などといったわけのわからないものは廃止した上で。
私はクラシック音楽が好きだ。一頃は近代・現代音楽にまで嗜好の幅を広げたが、年を重ねるとやっぱり、バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの古典派・ロマン派の作品に回帰してくる。(特に自分でも不思議なのは、通俗的で軽妙に過ぎると蔑んでいたモーツァルトの作品に、深淵な哀愁と畏敬を感じるようになったことだ。)
クラシック音楽を聴くことは、少なくとも自分の場合は、「魂」の交換であり、「鑑賞」というより「格闘」に近い。精神的集中が欠かせない。だから自動車の運転中には適さないし、読書や仕事中に聴くのももちろん不可能だ。それでいて、自宅で環境を整えてさあこれから聴こうと覚悟を決めても、どうしてもうまくいかないこともある。またそれなりにエネルギーを使うから、そう何曲も続けて聴けるものではない。そのかわり波長が合った時の感動は並ではない。思わず合掌して涙する。
(ちょっと話が逸れて、皆様のご意見を賜りたいことがある。本来音楽は生で聴くべきだという主張があるが、私は、見知らぬ大勢の人に囲まれて刹那的な一回性に懸けざるをえないコンサートホールよりも、ひとり静かに自分の部屋で聴く方がが、よほど集中して音楽に入っていける。正直言って、高いチケット代に散財する気持ちがわからない。私の心から敬愛する内田光子とアリス・サラ・オット。‥彼女らが演奏中に見せる苦悩と官能の表情を知れば、それに対応すべき聴く側の態度も自ずと想像できようというもの。なのに、ホールの観客はみんなどうしてあんなに涼しいお顔をしておいでなのか。ほんとにちゃんと聴いておられるのかしらん。)
私の心の糧というか、信仰というか媚薬というか、とにかく自分の一番深い階層に斟酌なく入り込んでくる曲がある。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の第一幕前奏曲がそれ。この曲にそんな強烈な想いを寄せる人なんてそうはいないだろうが、これをうまく聴くことができた時には、私はいつも紫色の幻覚をみる。
アシカが筆をくわえて書道をやらされているテレビ番組を観た。しきりに感激している観客たちがインタビューされていた。だがもしその中に、「アシカのショーは動物虐待です。」と答える人がいたら放送局の編集者はどうするか。この際そんな声は即刻無視される。(因みに、今やアシカやイルカのショーを動物虐待と捉えるのは世界の趨勢。アメリカ留学中に私も観たサンジエゴ動物園の有名なシャチショーはとっくに廃止されている。)
猛暑下の人々の生活を取材中には、「この暑さ大好きです。」という答えは無視される。取材側としては「こんなに暑いのに平気でいられるわけがない。こいつは変人だ。集めたいのは暑さに参っている声だ。」というわけ。
戦時下の食糧事情を取材するときは、「ウチは食糧には困っていません。」という声は無視される。物価高の生活への影響を取材しているときには、「これくらいの値上がり平気です。」という声は無視される。いずれも先ほどと同じ取材側の論理によるものだ。
もう一つよくある例。殺人事件の被害者はたいてい善良な聖人君子として紹介する一方、犯人の本性は、無理をしてでも、冷酷な鬼畜悪党としてあぶり出す。そしてこのシナリオに合わない情報は抹消する。
ジャーナリズムの偏見、バイアス、フィルター、色メガネ‥なんというべきか知らないが、とにかく報道の趣旨に合わない小さな声は無視するのである。不都合な小さな真実は握りつぶすのであるる。
報道者のこういう性質を皆さんはどう考えるか。少数派の意見は通らないのが民主主義の宿命なのだから、彼らのこうした姿勢も当然のこと、やむを得ないこととみなすべきなのか。確かに、私のように疑問を持つほうがおかしいのかもしれない。しかし私は最近こうも思う。マスコミが人間である以上、むしろ彼ら自身が良心的であろうとすればするほど逆に、真実をそのまま伝えることは難しくなっていくのではないか。つまり、原理的に、マスコミの報道から真実を知ることは不可能なのではないか。
本当に恐ろしいのは、マスコミのこうした特性によって、彼らの伝える情報が我々をあらぬ方向にリードする危険性を持っていることだ。たとえそれが、彼らが意図するところではないにしても。
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